「揺れてますね」
同僚の一言で地震に気付き、「長い」と思った瞬間に、自分は鞄を抱え、防寒着を手にしていた。
他の職員は出払い、部屋には二人だけ。釧路出身で、少年時代に震災を経験している彼にはまだ余裕があったけれど、自分はすごくイヤな予感がしていた。
彼をせき立てて事務所を出ようとした次の瞬間、建物が大きく揺れて電気が消えた。出入口を開けると、他部署の人達も屋外へ非難するところだった。
今までに経験したことのない強い揺れに、血の気が引く。
寮も備えた三階建ての事務所は激しくきしみ、隣接している運送会社の倉庫の屋根からは、何か破片のようなものが落ちてくる。
電柱や建物を避けた駐車場に全員が固まり、揺れがおさまるのを待つ。女性は他部署を合わせて四人ほどだが、中には動転のあまりに泣き出す人もいた。「子供が心配」、とひたすら繰り返す彼女の肩をさすることしか、自分にはできなかった。
電話はつながらない。
ラジオを持ってきた人がいて、震源地が三陸沖だと知る。
横浜でこれだけ大きく揺れた。相方は茨城にいる。もの凄く心配になった。
再び大きな揺れ。
直後、自部署の所長が帰ってくる。
車から降りず、緊迫した面持ちで食い入るようにカーテレビを見ている。
テレビでは、大津波警報が繰り返されている。
そのとき、所長の実家が宮古であることに思い当たった。何とも言いようのない気持ちが胸を締めつけた。
徐々に、職員が帰ってくる。
余震の続く中、何十回目かのリダイヤルで、やっと相方に繋がる。無事だった。それでも、お互いの家族にはまだ、連絡が取れない。相方の実家は福島。気が気でない。
電車が止まっていると知り、自分と同方向の人が車で帰るのに同乗させてもらう。
地理を熟知したその人のおかげで、渋滞を避けられ、家に辿り着く。
母と、山梨に嫁いだ妹、府中にいる妹とも連絡が取れ、とりあえずは安堵する。
九時近くになって、寮住まいの課長に電話するも、まだ付近一帯は停電したままだと聞く。所長の家族の安否も、未だ不明。
その後、職場にいる母を車で吉祥寺まで迎えに出る。学校勤めの父は、生徒の引き取り待ちで夜通し対応に追われるとのこと。こういうとき、先生って本当に大変な職業だと思う。頑張ってほしいと願った。
渋滞の中、母と二人で実家に帰り着き、そのまま泊まることになった。時刻は既に二時。その後、明け方まで度々鳴る地震速報を耳にしながら、うつらうつら眠る。
翌朝、再び事務所で待機している課長に電話。
所長の家族は、間一髪で津波を逃れたとのこと。家はダメだったけど、命は無事と聞いて、思わず涙がこみ上げた。
その後、帰宅。青森にいる同僚から連絡が来て、無事を知る。ただ、大船渡の事務所が流されたこと、そして職員との連絡が一切取れないことを知る。
次に、いまだ茨城で電気も水道も断たれている相方から連絡が来る。福島の実家は無事だったとのこと。
夜中になって、やっと相方が帰宅。茨城で撮ったという写真には、傾いた電柱や崩れた道路が生々しく映っていた。相方の友人はライフライン復旧のため、会社ぐるみで被災地へ向かうという。
弱り目に祟り目。次いで起こった原発のニュース。
不安なまま恐る恐る日曜を過ごし、月曜日、同僚の車に同乗させてもらい、出社する。所長の姿もあり、ここでやっと本人と話ができる。テレビで映った津波の、ほんの数メートル先が実家だと、パソコンの動画を指して言っていた。家はぐちゃぐちゃ。お土産のイカ煎餅を買ってきてくれた店や、生まれ育った故郷は、もう跡形もなかった。
会社のイントラの掲示板で、現地の状況を知る。社員の安否はまだわからない。
つけっぱなしのテレビから、犠牲者の予想数が流れる。
亡くなられた人の数だけ、自分と同じくらい大切な人生があった。一生懸命生きていた。それが、一瞬の出来事で失われた。そんな恐ろしいことが、現実に起こっている。
同時に、一縷の望みを持っている人間が、たくさんいる。ここから何人助かるか。一人でも多くの人が助かりますようにと、強く祈るばかり。
同僚の一人が、計画停電に対して愚痴を言っているのを、所長が一喝していた。被災地で起こっていることに比べれば、大きな問題ではないと。
確かに不便ではある。計画通りに実行されない停電に、苛立つ気持ちもある。けれど、ウチの会社の業種は医療機関や飲食関係とは異なり、一日二日の停電で、激しく支障が出るようなものではない。長引けば損害は大きくなるけれども、今、この時点では、ただ不便なだけ。そう思えば、耐えられる。まだ大丈夫。別のやり方を考えよう、と。
会社でまとめて被災地へ支援物資を送ることになり、調達に走る。
食料、衣料、下着、マスクから女性用品に至るまで、ハタから見たら買い占めにしか見えなかっただろうと思う。それでも、ごめんね、買わせて、送らせて、そう呟きながら買い物かごに詰め込んだ。
事務所に帰って荷造りし、車に積み終えると、すぐに課長が窓口である本社へ出発する。
所長が被災地へ応援を出すことを提案し、普段はチャラチャラしている職員が真っ先に手を挙げたのには心が揺さぶられた。対照的に尻込みした若い職員もいたりで、十人いれば十人の反応があるのだと思った。受け止め方は個人それぞれ。行動の出し方も、人それぞれ。それでもきっと、心の中にあるものはみんな、一緒だとは思うけれど。
この件は本社で検討案件になるもよう。実現するにしてもおそらく今すぐではない。効率や燃料を考えて、現地に近い事務所から状況次第で増やしていく方向になるかもしれない。
自分だったらどうするんだろう。真剣に考えてみる。
相方は月曜から埼玉の事務所に戻り、そこの寮に宿泊している。茨城での仕事は、しばらく延期になるという。
昨日の夜みたいに、一人でいるときに家が揺れたりすると、ひどく不安になることもあるけれども。
大丈夫。こっちは大丈夫……
福島の実家も心配。そちらの方が心配。放射能は怖いよ。
今日になって、横浜線がやっと動き出した。
ほんの少しだけ、日常に戻りかけた一日。
混み合った電車でもいい。会社にたどり着くいつもの道は、平穏だった日を思い出させてくれる。
家に帰ったら、真っ先に記事を書こうと思った。サッカーのことばかり追って、小ネタ考えたりした楽しい時間をなぞりたくて仕方なかった。長友選手のこと、リーグ戦の延期や代表戦についてとか、色々思うこともあったわけで。
実際は、地震のことしか書けなかった。
自分の周りに起きただけで、【本当の意味で】降りかかった災害ではなかったけれども。素通りするのではなく、書き留めておきたくて、そのうちにこうなってしまった。
金曜からこっち、本当に長い日々だった。
でも、まだ終わらない。まだ、これから。大変なのは、これから。
安否について未だ不明な人々もいる。どうか、無事でありますように。生きていて下さい。生きていて、下さい。
そして、先発輸送隊の第一便が現地に届いたと知らせがあった。
まずは燃料。他の支援物資も、もうすぐ届くはず。
あの大きな被害の中で、我々ができることは微々たるに過ぎないかもしれないけれど。
少しでも力になれますように。寒さが、空腹がしのげますように。
少しでも、あなたの生きる力になりますように。
一ヶ月後、日本に、一人でも多くの人の笑顔がありますように。
最後になりましたが、この震災で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。